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われわれのDNA 

佐野の魅力といえば味のおすすめ、今や全国的に有名になった名物「佐野ラーメン」厄除け、祈願には関東の3大師で知られる「佐野厄除け大師」全国でも有数のカタクリの群生地は3月下旬頃に薄紫の可憐な花を咲かせる「万葉自然公園かたくりの里」、国内外の有名ブランド店が立ち並ぶ関東最大級のショツピングセンター「佐野プレミアムアウトレット」、日本名水百選に選ばれる良質な水が湧き出る「出流原弁天池」など魅力満載だ。でもそれよりも長い歴史がある佐野は文化、芸術、そして人物素材の魅力は北関東の一都市に過ぎないのに、計り知れない魅力が埋もれています。あなたなりに探してみてください。

私が道案内をいたします。
「万葉集に詠まれた」・・静岡以北の歌230首ある、国名が判明した歌は90首〈下野の国〉のものが、2首いずれも佐野を歌つたもの。

佐藤という名の発祥の地・・全国に200万以上の姓を持ち全国一の苗字「佐藤」姓の発生由来は、将門を討った藤原秀郷の居城地佐野の藤原が大いに栄え広まったもの。

お茶の釜は「東の天明、西の芦屋」と千の利休など茶人が愛用した、天明鋳物は京都方広寺大仏の鐘など千年の歴史を持ち、今も生き抜いている。

✪尾形乾山の佐野逗留・・江戸と佐野を結ぶ越名河岸は関東の3大河岸のひとつで、江戸との文化交流が図られ、その文化人の中に69歳の尾形乾山が佐野の文化人の招きで14ヶ月間佐野に逗留し、乾山芸術を育む。

✪日本近代洋画の父高橋由一、歴史画の父小堀鞆音、近代美術の村田良作のふるさと・・由一の鮭図や花魁図は国の重要文化財に指定されている。鞆音、良作はいずれも東京美術学校〈現東京芸大〉の教授として日本の美術界をリードし、その後鉄絵で人間国宝に認定された田村耕一や現在活躍中の陶芸家島田文雄へと芸大教授への道は途絶えることなく繋がっている。

✪終戦の日を佐野で過ごした司馬遼太郎・・青年の時戦争体験が司馬文学の原点といわれる。満州から佐野に駐留してきた福田青年は、上官に占領軍の攻撃に決戦へ向かうとき子供たちを犠牲にしても進めろとの命令に疑問を感じる。日本のリーダーはいつから変ったのか、司馬の歴史観が国民作家を生んだ。このほか、田沼意次や田中正造など日本を動かした人物がわれわれのDNAを呼び起こす。

乾山 69歳の旅だち

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越名河岸の跡、参考にした乾山図書

謎も魅力2人の国民的作家による歴史ミステリー

歴史的真贋論争となった佐野乾山事件での川端康成氏のなぜニセモノ発言。

佐野で青年将校として終戦を迎えた司馬遼太郎はなぜ佐野を訪れなかった。

   佐野の文化史のなかで、昭和を代表する国民的作家といわれる川端康成氏と司馬遼太郎氏の両巨頭作家が佐野の歴史・文化史に大きく関っていることをご存知だろうか。そのことにいまだに佐野ではトラウマとして、われわれの心に突き刺さったままである。この2つの出来事は、今忘れ去られようとしているが、多くの謎を含んだ2大ミステリーは、今は関係者もわずかに現存している程度で、当時では語れなかったことが、誰かが語り始めることで、真実が解明される日は近いのではないか。そしてわれわれに真実を語ってもらいたい。

真贋論争となった佐野乾山事件での川端康成氏のニセモノ発言

そもそも歴史的真贋論争となった佐野乾山事件とは、

美術品には偽物が付きまとうが、やきものに関しては、昭和36年に重要文化財である「永仁の壺」を加藤唐九郎氏の作品であるとした事件と翌年に起きた「佐野乾山真正論争」は美術界を騒がした2大事件といわれている。

 ことのはじまりは、昭和37年1月イギリスの陶芸家で日本にも馴染みのあるバーナード・リーチ氏が、佐野で新発見された「尾形乾山」の作品数十点を見て、真正な作品であると褒め称えた記事が朝日新聞に掲載された。その後毎日新聞では大量に発見されたことで贋作説をキャンペーンした報道がなされた。そして美術家、古陶研究家、学者、コレクター、マスコミ、国立博物館、陶磁協会等を巻き込んで真贋論争は過熱して、10月衆議院文教委員会で佐野乾山問題に関しての質問に至った。主に真正派としては京都国立博物館の藤岡氏、画家の岡本太郎氏、評論家など。贋作派はガラス工芸の岩田藤七氏、作家の川端康成氏、古陶愛好家、研究者が集う陶磁協会など。特に川端氏や陶磁協会はきびしかったといわれる。国会質問後においては博物館や研究員たちは公務員という立場のため、一切公言をしなくなり、次第に川端康成氏らの主張する贋作説が一般に了承され、定着した流れになってこの論争は終息したという。

本当に贋作説は正しかったのか。

 真正派を主張した人は、組織や利害にこだわらない自由に発言できる立場の人が多いといわれ、乾山が佐野での逗留したときの手控,作陶メモ、箱書き、陶磁製方が佐野で執筆されたものから、同様の筆跡などにより真正説を説いているといわれる。対し、贋作説を説く人たちは、陶磁協会を中心に佐野乾山が本物だと困る利害関係団体とその団体の傘下の学者、陶芸家、業者などが中心であったといわれています。贋作説で真贋論争の終息を図りたいとうごめいたのではないか。バーナードリーチ氏が絶賛した真正乾山の作品について、リーチ氏と交流のあっつた7代乾山を名乗る富本憲吉氏や浜田庄司氏などは協会との関係からこのことについて言及しななかったといわれる。なぜ、その先鋒をきって川端康成氏は贋作だと言い切ったのか。

尾形乾山の生い立ちと江戸下向

尾形乾山は1663年京都呉服屋雁金屋宗謙の3男に生まれる。兄に光琳がいる。乾山は幼名を権平といい、乾山が陶への芽生えは遠縁に琳派の元といわれる本阿弥光悦や俵屋宗達との血縁とのつながりや、31歳の時に福王寺村鳴滝の屋敷を譲り受けたが、その仁和寺領内に仁清窯が陶煙を上げていたので、やきものを習うのに格好な場所であった。従弟の平四郎(宗入)は楽家を継ぐなどなど芸術的才能は偶然とは言い難いといえる。乾山はこののち5年後の37歳の時、仁清より陶法の伝授を受け、乾山窯を開窯しここで13年間作陶生活を送る。1712年二条丁字屋町に移転して乾山焼の評判を得ることになる。1716年、54歳の時、兄光琳が死亡した。その後仁清の子猪八を養子に迎え、猪八(2代目乾山)に乾山陶法を伝授して、乾山は1731年12月、 69歳の時、東山天皇第3皇子公寛法親王に従って江戸に下向し、入谷村の深川木塲の材木商,冬木屋上田喜兵治宅に居を定め陶器を製作し、81歳江戸で没するまで10年余、京都を離れてひとり異郷で活躍し、弟子の酒井抱一などを育てるなど、江戸の文化の華を咲かせた、老陶匠のこの生き様を学ぶことで、乾山の思いを知ることができるのではないか。

佐野逗留の14か月

乾山は69歳で江戸に下向して以来、入谷村に窯を造りやきものを造り過ごしていたが、その翌年に佐野在住の大川顕道が下野の国佐野に乾山を招く要請を行っていた。乾山は「江戸に下れば、下野へ、そこにまいれば、その先へと、末は、えぞの国まで」と嘆いて、佐野への招きを断っていた。しかし佐野への招きは、大川顕道、須藤杜川、正田道茗、松林広休ら佐野の文化人の招聘は5年にも及んだことから、1737年元文2年乾山は75歳となり、佐野を訪れることになった。当時越名河岸から江戸までは下り2日、上り3日と言われ、乾山も2日かけて下野の国佐野に2月下旬に到着している。

乾山にとって、佐野の地を長年乾山の芸術性や人間性に対してのよき理解者であり、理想的で陶芸人生の最後を飾る地となっていた。「陶工必用」「陶磁製方」や多くの手控の執筆などを残、また窯を3カ所1,000点近くの作品を焼いたといわれ、乾山芸術の集大成を図りたいとの思いを強くしていたのではないか。

1737年東山天皇第3皇子公寛法親王に従って江戸に下向した公寛法親王の病を知り、乾山は、越名河岸から江戸へ向かったため佐野での滞在は14か月であった。その後1743年81歳で乾山は江戸で死去した。乾山は晩年の1年余に情熱をかけたであろう自分の生き様を、生まれた京都から遠く離れた佐野において。しかし無情にも、乾山死後220年後に佐野で200点以上の作品が発見され贋作ということで幕が下ろされた。 美術界のタブーといわれる贋作事件は、乾山が佐野に来たのは事実であるにもかかわらず、すべてがクロとして、抹殺されている現実を乾山はどう思っているのだろうか。

司馬遼太郎物語

謎も魅力2人の国民的作家による歴史ミステリー

佐野で青年将校として終戦を迎えた司馬遼太郎はなぜ佐野を訪れなかったのか

終戦当日 あの、司馬遼太郎は佐野にいた

昭和20年3月、日本陸軍は米軍の関東地方への上陸を阻止し、いわゆる本土決戦(決三号作戦)のため、対ソ連戦に備えていた関東軍機甲部隊、戦車第一師団(拓部隊)をひそかに転用、5月頃から隷下第一連隊が佐野周辺に展開した。戦車は近くの山麓、神社の森等に分散、配置された。この戦車第一連隊第五中隊の第三小隊長として、福田定一陸軍少尉、後の司馬遼太郎先生が植野国民学校に駐屯していた。

22歳の自分への手紙である

平成3年の秋、「文化功労者」に選ばれた司馬氏が新聞記者会見の席上「功労者に値するのは、敗戦の日を栃木県の佐野で迎えた22歳の自分であるか、それとも現在の自分であるか」と自問自答された。と報じられている。そして、「竜馬がゆく」「坂の上の雲」など動乱の世を往来する人間像を活写した数万ページに及ぶその後40年の労作は、すべて佐野で敗戦時に直面した「日本人とは何か。」との当時22歳の司馬氏自身の基本的疑問に対する自己回答にほかならない。」と文化功労者司馬遼太郎が明言された、と報じられている。更に平成5年に文化勲章を受章された時も、その作家生活の中で佐野を大変懐かしがり、栃木県の佐野は最後に一番行きたい所だと話していたそうである。佐野には短い滞在だったが、先生にとって生涯忘れ得ぬ土地となったのである。

司馬文学の原点、佐野での熱き4か月を徹底研究(元校長早乙女務氏)

佐野市内在住で元小学校校長の早乙女氏は、司馬さんと佐野との関りを広く知ってもらい、司馬文学の原点をつたえていきたいと平成15年に「あの夏の日の司馬遼太郎」と題して当時の司馬遼太郎を知る40人をインタビューし、まとめたものを自費出版した。その印税をもとに早乙女氏らが中心となり、市内の有志からの資金を集めて平成21年5月に司馬遼太郎文学碑を司馬遼太郎ゆかりの島田邸跡の植野地区公民館敷地に建立し、平成23年1月には司馬遼太郎が戦車部隊の小隊長として、本土決戦に備えて佐野市に駐屯し戦車や装甲車など98台が配備されていたが、そのうちの15台が赤城神社の森に隠されていたところに「戦車隊の碑」を建立した。この赤城神社は司馬氏らの戦車隊が兵舎とした植野国民学校(現在の植野小学校)の近くにある。

佐野にいた頃の青年福田定一(司馬遼太郎)は

青年将校福田定一は昭和20年5月半ばから9月半ばまでの4か月陸軍戦車第一師団第一連隊第五中隊の第三小隊長として、佐野市内で暮らした。早乙女氏(前出)の取材などから福田青年の素顔を知ることができる。

小学校では、いつも小使室にいた。よくみがかれたかまちに腰をおろすと、足もとがいろりになっていて、いつも大きな薬罐がかかっていた。住みこみの用務員の人は四十くらいの無口な体の弱そうなひとで、その人の子が利発な小学生だったが、土地の子供の遊びなどいろんな話をしてくれた。いわゆるダンベイ言葉で、内容よりも聞いているだけでこころよかった。司馬遼太郎「私の関東地図」(歴史の世界から)に登場する用務員山田伝三郎さんの子供で当時15歳だった山田武さんと12歳だった学さんの兄弟は、「毎日来て新聞を読んでいました。戦争の話は一切しなかった。歴史の話はよくしてくれた。とにかく話し好きな人だった。品があり言葉遣いがいいので標準語ではなしていると思っていた。戦争が終わったら、大学で勉強するといっていた。終戦前の司馬の日常の暮らしぶりを明かしている。終戦の日は「静かにうつむいて、学校の裏庭を歩いていました。と証言している。また、小学校には、三人しか先生がいなかったように記憶している。若い先生はみな兵隊にとられてしまっているのか、二人の男の先生はどちらも五十年配で、どちらも酒が好きだった。(中略)いまひとりの先生は、やや太り気味の若い女の先生であった。目が大きく,頬の丸い美人で、灰色の作業衣ふうのみじかい上着に、男物を仕立てなおしたズボンをはいていたが、そういう直線的な服装を押しのけるようにして若い体の線が露になっており、彼女が小さな校庭で体操をしているときなど、なるべく見ないようにして隅を通りすぎることにしていた。司馬遼太郎「歴史の世界から・私の関東地図」が若い女の先生と書かれたこの人は、誰なのかと探したところ、20年当時植野国民学校には男性11名、女性26名の先生が在籍しており、該当する年齢の方が多い中、当時22歳の女性教員だった永倉智恵子さんが、昭和20年9月14日の日記で司馬らと雑談したことを書いていた。「(司馬と)渡り廊下ですれ違ったとき、恥ずかしそうな顔をするので、なんで、とよく思いました。」と早乙女氏に教えてくれた。早乙女氏も司馬さんとの出会いについて,眼鏡をかけた将校と駄菓子屋の前で、友人が軍刀を抜いて見せてとねだった時、将校は「これは日本に大事が起きた時しか抜かないんだよ」と言って微笑んで立ち去った時の容姿や言葉から福田少尉であったと思い込んでいる。と平成15年12月7日産経新聞朝刊に掲載された。司馬の指揮する戦車隊の操縦士だった故西沢恒幸は満州から戦況の変化によって佐野に配属された戦友であり、戦後も佐野に住み、長男弘氏は小学校の校長を務めており、父から司馬さんは物静かで、他の上官とは違い、大声を出すことはなかったと聞いている。という。また、西沢氏は司馬遼太郎が亡くなって1カ月後の平成8年3月、自宅から見つけた司馬さんの兵隊さんの写真を公開して話題となった。

兵隊の仲間から見た福田少尉は

 司馬さんはほとんど部屋から出てこないで、本ばかり読んでいたようです。(第5中隊馬場氏)、本ばかり読んでいる変わったのがいる、という噂を聞いた。司馬さんは兵隊さんを「さん付け」、下士官を「君付け」で呼んでいたとの話しも聞いた。(第1中隊、大久保氏)、実務経験の無い司馬さんには、きちんと伝わらず、もどかしく思った。(第5中隊大前氏)、毎朝の日課は、司馬さんの朝のあいさつで始まった。「中隊長」と1枚の半紙を彼は出す。見ると漢詩が書いてあった。大抵1つか2つの詩であった。どちらかといえばおっちょこちょい、あわて者の福田見習士官がどうしてこんな巧みな詩を作るのか、不思議でならなかった。高崎の廠舎から佐野移駐まで、毎朝必ず詩をもって私に挨拶に来てくれた。(第5中隊長西野氏)、彼の第1印象は、丸顔で丸眼鏡をまるで漫画の主人公のようだったという失礼でしょうか。愛嬌のある顔をしていました。福田君自身、訓練に対して熱心ではありませんでした。きびきびした動作、勇敢であるという姿勢、あるいは張り切っているという姿勢が見られなかった。「集合」がかかっても一番後ろから来るのが、福田君で、上官からよく殴られていた。上官のいないところでは、「自分は軍人型ではない。」「僕は蒙古語部で語学と民俗学を学んだ。僕は中央アジアを放浪したい。そして大蒙古の歴史、その滅び行く歴史がなんであったのかを見極めたい。それが唯一の情熱の対象なんだ。と言って皆を驚かせた。同期の卒業生は217人(全員学徒兵)。司馬さんは、生前「自分はビリから2番目でした。」と冗談めかして話すことがあったが、確かに下のほうという印象だった。(第1中隊同期の藤田氏)

佐野への司馬遼太郎の思い

 司馬遼太郎は終戦前後の数か月を、陸軍少尉として栃木県佐野市で暮らしていた。司馬は書物や対談で「自分が書いた小説は佐野時代の自分への手紙」と表現している。佐野で過ごした時代が司馬文学の原点といわれている。司馬は佐野について、どの様に表現しているのか。

「下野の佐野という町は機業地として知られている。いかにも富裕といった感じで、どんなに小さな家でもたたずまいが清潔であった。杉板の表面を炭化させた家々の側面がときどき露地をつくっていて、露地のむこうには軒瓦の列と格子戸が見え、その向こう通りをゆくひとの下駄の音がきこえるほど静かだった。私は兵隊にとられて山の中で最初の訓練を受けて以来、2年ぶりで日本の町というものの中を歩いていた。私自身、町育ちのせいか、佐野の露地から露地へ通りぬけるのが、たまらなく好きだった。「歴史の世界から」中央公論社、「私は毎日のように町をあるいた。この町は、十三世紀からの鋳物や大正期の佐野縮など絹織物による富の蓄積のおかげで町並みには大きな家が多く戦時中に露地に打水などがされていて、どの家もどの辻も町民による手入れがよくゆきとどいていた。軒下などで遊んでいるこどもも子柄がよく、自分がこの子らの将来のために死ぬなら多少の意味があると思ったりした。「この国のかたち」文芸春秋

「四十歳前後から、二十二歳の佐野の町にいた私自身にむかって手紙を書きはじめました.それが、私の小説のようなものです。読者はいつも、私のなかにいた二十二歳の私です。「文芸春秋1月号」

「佐野は落ち着いたきれいな町で人情もよく、いい印象ばかりあります。」「文芸春秋1月号」

「敗戦の数か月前、私どもがいた宿舎は小学校で,この宿舎にきて最初にやったのは、敵の空襲からの被害を避けるために付近の山々に穴を掘って戦車をかくすことと、校庭に小さな濠を掘って、対空用の機関銃座をつくることだった。その作業中、私はしきりに謡曲の「鉢の木」のことを思った。「この国のかたち」文芸春秋

「私はいまだに20代前半であった自分から離れられずにいる。その頃の私は、憲法上の義務によって兵役に服していた。それが終了するのは、1945年8月15日の敗戦の日だった。(中略)当時、栃木県佐野に駐屯していた。(中略)終戦の放送を聞いたあと、なんとおろかな国にうまれたことかとおもった。むかしは、そうではなかったのではないか。そう思い立って三十代で小説を書いた。(平成3年文化功労者受章インタビュー)

司馬はなぜ2度と佐野へ来なかったのか

あの年の早春、駐屯地のソ満国境から連隊(戦車第1連隊)ぐるみ本土防衛のために帰ってきて、栃木県佐野にいました。22歳でした。佐野は鎌倉末期から富が集積されてきたかと思えるような落ち着いたきれいな町で、人情もよく、いい印象ばかりあります。あまり懐かしくて、その後、再訪していません。佐野での数カ月は、本土決戦に備えての奇妙な日々でした。と司馬は生前のインタビューで佐野は「自分のふるさとのようなもの」といっていた。全43巻続いた司馬の歴史紀行エッセー「街道をゆく」でも取り上げられなかった。しかし、満州から帰ってきて関東平野を見たときの感動は、何とも言えぬもので、国が亡びかかっており、この山河だけが残っている。過去のじぶんへの手紙が小生の作品であります。ですから「街道をゆく」それを終えましょうというときは、中山道を背景にした関八州を書こうと思っています。その時は佐野にいました、本土決戦にも触れます。と「街道をゆく」の最終回は関東平野ー栃木県佐野で終わると担当編集者の山崎氏に漏らしていたという。また、佐野に駐屯した連隊は戦後「戦友会」を幾度も開いた。生前の司馬も何度も顔を出していた。そこで、語られるのは、最前線で死を覚悟した仲間たちで当時の失敗談や笑い話、そして佐野の人たちの暖かさ、町並みの素晴らしさだった。そこで、次は佐野でどうだろうと、中隊長の西野氏が石頭会(第5中隊の戦友会)の開催を提案したところ、司馬さんは「私は反対」と、強い口調で言ったので立ち消えになってしまった。何か理由があると思う。と語っている。司馬さんは佐野は自分のふるさとのようなもの。「自分のイメージが混乱するので、機会があってもあえて佐野にはいかないんだよ。」司馬さんの心の中には、「生涯に残る人たち」が当時のまま、手つかずでいきづいている。司馬遼太郎が平成5年文化勲章受章の際のお祝いの手紙を、山士家さんの2女の駒形菊江さんが送ったところ、その返事の書簡に佐野の町の景観や人情、終戦に対する自分の気持ちを伝えている中で、佐野の町の変わりようを心配し、佐野を訪問しない理由が書かれている。

司馬(福田青年)と山士家さんとは、宿舎の近所にあり、休みのたびに一人で訪問するなどお世話になっており、佐野を離れる前には一晩泊り、「白絹一反」の贈り物をいただいたことなどお礼が書かれている。佐野の町を「富裕な機業家の町で、立ち並ぶ家々の姿もよく、西洋人に自慢したいような町」と印象を語り、おそらく変わってしまったでしょう。いまの佐野を見るのが怖くて,いまだに行っておりませんと変わりようを心配していた。山士家家のご主人は、漢詩が好きであったので、話が弾んだと考えられ、21歳の若僧をお相手にしてくださったことをありがたく感謝を表している。佐野の町を歩きながら、いつも死について考えていました。何のために死ぬのかということについては悩み続けていました。そして終戦については「昭和はばかな時代で、敗戦はせめてもの幸運でありました。フランス革命よりもずっとすばらしいエポックだったと思います」と書かれており、佐野の部隊については、今も付き合っています。ほとんどが九州の人々です。と決して佐野の夏の日は忘れていないと。書簡から司馬遼太郎という人の温かい人柄がにじみ出ているようであると駒形菊江さんは言う。

佐野からの誘いに

佐野市からのぜひ講演にきていただけないかという誘いについては、平成3年、5年に教育委員会生涯学習課の担当から手紙により依頼している。司馬氏から手紙で原則講演はしないと断りのはがきをいただいているが、手紙には佐野はなつかしいまちであります。佐野はいつかお訪ねしたいと思っています。むろん講演でなく、一人であちこち歩きたいということであった。また私は(平成5年当時観光課職員)文芸春秋社を通じて、佐野市制施行50周年の記念イベントに佐野へ招待したい旨、電話で先生に依頼したところ、先ほどの内容でいづれ佐野にはひとりでそっと行きたいので、との返事で、佐野への再訪は実現しなかった。佐野を訪れたくないということは、著書の対談の中でたびたび言及している。

栃木県佐野は、小生の軍隊時代(2年間)の最後の地で、佐野市から来てくれないか、とときどきお声がかかります。そのつど「変った佐野は見たくないので、」と断ります。以前の美しい家並が、心の中に力づよい映像になって、常に陽がふりまいているからです。「もうひとつの風塵抄」中央公論新社

佐野はきれいな町でした。江戸時代から豊かなところで、家の構えは立派だし町並みも露地の佇まいもいい感じです。(中略)敗戦ゲームセットというわけです。だから栃木県の佐野の町は懐かしいんだけど、まだそこだけは行かないようにしているんです。「週刊文春平成7年8月立花隆氏との対談」

みどり夫人によれば、司馬遼さん愛用の机には、佐野からの手紙が一番目に付くところに貼ってあっつたという。佐野は生涯忘れ得ぬところでした。最後に一番行きたい町は栃木県の佐野であった。と夫人が話されています。

司馬遼太郎先生の略歴

司馬遼太郎という昭和の巨匠、国民作家とし幅広く親しまれた作家である。1923年(大正12年8月)奈良県北葛城郡磐城村に生まれる。

昭和16年4月大阪外国語学校(現大阪大学)蒙古語部へ入学、昭和18年9月学徒出陣、昭和18年12月、戦車第19連隊入営、昭和19年12月戦車学校卒業、見習士官として、戦車第1連隊第5中隊に配属される。昭和20年4月戦車第1連隊は帝都防衛のため、3月満州を出発、新潟港に上陸、群馬県相馬が原に移駐、昭和20年5月戦車第1連隊は栃木県佐野周辺に展開する。昭和20年8月15日佐野で終戦の玉音放送を聞く。昭和20年9月12日拓部隊解散式、復員開始、昭和23年産業経済新聞社入社、昭和31年「ペルシャの幻術師」で第8回講談倶楽部賞。昭和35年「梟の城」で第42回直木賞を受賞、昭和51年(1976年)日本芸術院賞(文芸部門)受賞、平成5年(1993年)文化勲章受章。主な著作に「竜馬が行く」「国盗り物語」「坂の上の雲」「空海の風景」「翔ぶが如く」「菜の花の沖」などのほか、「街道をゆく」「風塵抄」「この国のかたち」などの紀行、エッセイがある。平成8年(1996年)逝去。享年72歳。忌日は「菜の花忌」と呼ばれる。

資料提供  磯田守氏

司馬遼太郎写真集

司馬遼太郎物語(写真集)

前列右の司馬遼太郎

司馬遼太郎右から3人目

本土決戦における戦闘配置図

佐野周辺に展開した戦車隊

連帯本部(天明国民学校

第1中隊解体式(田沼第2)

第2中隊(犬伏国民学校)

第3中隊解体式(田沼中央)

第4中隊(堀米国民学校)

第5中隊(植野国民学校)

整備中隊(佐野国民学校)

佐野周辺に配置された戦車は77台

旧植野小(2階が裁縫室)

永倉先生   山田兄弟

市民有志で司馬遼太郎文学碑建立(植野地区公民館)

京の桜守佐野藤右衛門と佐野桜

今年は日本で初めて花見が行われてからちょうど1200年めの節目

 

今年の桜は例年より少し遅れて4月に入ってから桜前線の北上が始まったが桜を見て日本人なら癒され、なぜか心がウキウキさせられるものです。  日本で最初に桜の花見の宴が行われたルーツは今からちょうど1200年前の812年平安京神泉苑の庭園において行われたと「日本後記」に記されている。  その京都には桜の名所は数多くあり、平安京の華やかや、桃山文化を象徴する雅を醸しだしている。1200年もの間、桜は時代、時代の舞台となってそれぞれの思いを描いてきました。ちょうど節目の今年、4月8日〜10日まで桜満開の京都桜めぐりを行い、平安の桜まで思い出を重ねて、楽しんできました。

 

桜守の佐野藤右衛門さんとは

 桜のルーツである京都の桜を守ってきた桜守の佐野 籐右衛門(さの とうえもん、佐野 藤右衛門)は、庭師の名跡。京都・嵯峨野にある造園業「植藤」の当主が襲名する。籐右衛門は、天保3年(1832年)より代々、仁和寺御室御所の造園を担ってきた。  当代の第16代 佐野籐右衛門(1928年(昭和3年) - )は、日本の造園家、作庭家。祖父である第14代籐右衛門が始めた日本全国のサクラの保存活動を継承し、「桜守」としても知られる。京都府京都市生まれ。京都府立農林学校卒業。造園業「株式会社植藤造園」の会長。桂離宮、修学院離宮の整備を手がける。パリ・ユネスコ本部の日本庭園をイサム・ノグチに協力して造る。1997年(平成9年)、ユネスコからピカソ・メダルを授与された。1999年(平成11年)には、勲五等双光旭日章を受章。2005年(平成17年)には、京都迎賓館の庭園を棟梁として造成されるなど今や世界で桜を守る活動が評価されている有名な方です。

藤右衛門さんの佐野桜

 佐野桜は山桜の実生から突然出た八重の優雅な花の園芸品種です。京都の桜の研究家であった佐野藤右衛門氏によって選抜されたものです。4月の上旬から中旬ごろ、淡い紅色の花を咲かせます。卵状楕円形または長楕円形の葉は、開花とともに展開します。

佐野と佐野桜

 1200年前、日本で初めて桜の花見が開催された京都において、桜を守り続けている桜守の佐野藤右衛門さんから、昭和49年に10本の佐野桜の苗木が佐野市に寄贈されました。  佐野市は平安後期この時期、下野の国に赴任した藤原秀郷公は平将門を討伐し、一躍勇名を馳せた武人が唐沢城を築城したといわれている。佐野市は北関東の小京都といわれており、平安の時から今日まで、歴史の中で、人との関りをはじめ、なかなか知られないところであるが、京都と深い繫がりがあることをご存じだろうか。藤右衛門さんは、この佐野と名前が同じだという事で、佐野桜を寄贈しただけでなく、古い歴史的なつながりが導いてくれたものなのです。  寄贈された佐野桜は、佐野市民の憩いの公園で桜の名所でもある城山公園に植えられた。あれから40年が経過して、今では立派に成木となった佐野桜は、市民の桜として十分楽しませてている。この佐野桜は文化協会などの団体が佐野桜の普及に努め、市内の観光地で佐野桜の植樹が行われ、佐野桜が楽しめる。 桜の小皿は藤右衛門さんが焼いた桜の小皿を以前私がいただいたものです。  

近代洋画の父 高橋由一の展覧会の開催に思う

(高橋由一は佐野藩士)

 

平成24年4月28日〜6月24日まで、東京上野の東京芸術大学大学美術館で近代洋画の父といわれる高橋由一(1828年文政11年〜1894年明治27年)の展覧会が行われており、私は5月2日に見学してきた。高橋由一は<鮭>、<花魁>(いづれも重要文化財)を描いた画家として美術の教科書に載っていることで、よく知られている。今回は高橋由一の日本で最初の洋画家として江戸から明治の近代日本の幕開けとともに歩んででき作品132点のほか豊富な参考資料で高橋由一の全貌を紹介する展覧会で東京では約20年ぶりに、鮭の作品を直にみることができるという貴重な展覧会とのことである。 高橋由一は私の住んでいる栃木県佐野市と非常に深い繋がりがあり、郷土の誇りといっても過言ではない。由一は1828年、父は高橋源十郎、母タミの嫡子として江戸で生まれる。幼名を猪之助といい、維新後に由一を名のる。父は堀田佐野藩士として江戸藩邸において新陰流剣術師範をつとめており、由一は1836年9歳の時佐野藩士堀田正衡の近習(身の回りの世話をする)を勤める。のち近習長となり、図画取扱も兼務する。しかし由一は21歳の時に病弱のため家業である弓・剣術師範の継承をあきらめ、画業に専心する。

 

(主君の影響を自然に身につける)

佐野藩7代藩主 堀田正衡

 由一の主君堀田正衡は佐野藩第7代藩主となり、内政面では家臣に西洋砲術を学ばせるなど軍事訓練を強化して藩の近代化に貢献、また幕府の若年寄を勤める傍ら、和歌や絵画に長じ、多くの絵画を残している。正衡の父堀田正敦は仙台藩主伊達宗村の8男で若年寄、老中松平定信を補佐し寛政の改革により幕政改革を行った。田沼意次の失脚を図り、田沼の重商主義政策が、大店による独占市場を生み出し、農業及び工業の生産基盤を否定かつ破壊する政策である事を幕府にアピールしたともいえる。松平定信は8代将軍徳川吉宗の孫にあたり、白河藩主として飢饉対策に成功した経験を買われて幕府老中となり、11代将軍徳川家斉のもとで老中首座となり緊縮財政、風紀取締りによる幕府財政の安定化を目指した。その堀田正敦は30年後に佐野藩第6代藩主となるのだが、因縁だろうか、松平定信や正敦らにより失脚した老中田沼意次もわが佐野市の出身者である。正敦は幕臣の財政通だけでなく、伊達藩の血筋とも言える、文武両道にたけており、植物学者でもある。寛政の改革では和歌を中心とした文教新興策を行っており、正敦は定信をはじめ、屋代弘賢や北村季文、塙保己一など、好学大名や学者・文人ら文化愛好集団の繋がりから古典を収集し、同時代の学知を反映させた写本を編纂している。正敦の収集資料には「堀田文庫」の蔵書印が押印されており、禽譜・観文禽譜は代表的資料である。『禽譜』(きんぷ、堀田禽譜、写本を宮城県図書館などが所蔵)・『観文禽譜』(かんぶんきんぷ、宮城県図書館所蔵)は鳥類分類図鑑で、鳥類の生物学的記載のみならず、関係する和歌や漢詩などの考証も記載した総合学術辞典としての性格を有する。『観文禽譜』は寛政6年(1794年)に序文が付せられていることから一旦完成を見たものの、父の遺志をついで、正衡がその後も校訂編纂作業は続けていた。由一は2歳の時絵筆をとり、母たちを驚かすほどの絵に興味を持っており、幼い時より、主君の傍にいて、主家に出入りしていた狩野派の画家や文人たちとの交流より、運筆法を学ぶなど、由一作品の特徴であるリアリズム見たまま、ありのままを描写するという表現は自然に身に着けたといえる。

(由一が残したもの)

由一60歳自画像

 由一は明治27年67歳で亡くなるまで近代洋画の普及、画塾を開き、展覧会を開催し、美術館の建設構想を持ち、日本に洋画の必要を必死に世間に訴えてきた。(近代洋画の開拓者 高橋由一図録巻頭より引用)日本で最初の「洋画家」といってよい。由一の作品は東京芸術大学大学美術館の鮭や花魁の重要文化財の作品のほか、香川の金毘羅宮、笠間日動美術館等で所蔵されているが、由一のふるさとである佐野市に由一の作品が1点も所蔵されていないのは残念である。関係者の努力で1日も早く所蔵を望んで止まないところです。日本近代洋画の父高橋由一の作品は郷土には残されていないが、由一が灯した日本の美術、画業は故郷にも脈脈と受け継がれている。歴史画の父と言われる小堀鞆音、近代美術の村田良作はいずれも東京美術学校〈現東京芸大〉の教授として日本の美術界をリードしてきた。鉄絵で人間国宝に認定された田村耕一や現在活躍中の陶芸家島田文雄は東京芸大教授として道は途絶えることなく繋がっている。12万人の人口で芸大教授が4人も排出していることは、まぎれもなく高橋由一の影響といえる。

田中正造翁没100年に思う(第1回)

今甦れ「物事を民の立場から考える」正造の精神

 

  田中正造(1841〜1913)

 

 わが郷土が誇れる偉人、不世出の政治家、田中正造は、下野の国 小中村、今の佐野市の農村に生まれた。「予は下野の百姓なり」と農民のため、正義のために生涯を尽くし公害の原点といわれる足尾鉱毒被害を訴え続け、農家の実態調査中に農家の庭先で倒れ、73歳で亡くなり、来年2013年は正造没後100年を迎えます。 正造が亡くなって100年の月日が流れ、正造が一生をかけて守ろうとしたもの、弱い立場の人間に対する人権擁護とか、人間が住みよい自然環境とは、それを守る国家とは、法律、政治家、人々は、日本人として一歩でも進歩したといえるのか。田中正造が政治ではもはや鉱毒から人民を救うことができない、失望し、万策尽くして亡くなるまでの10年を谷中村で過ごした。64歳で、今の自分と同じ歳、100年前の正造が生きた社会と現在をもう一度生涯を顧みて、検証をしてみたい。) 

 

 第1章 正造の生涯

 

1. 青年正造(誕生〜29歳)

  (左写真は田中正造旧宅、右は生誕地)  

1841年(天保12年)

 田中正造は父富蔵、母サキの長男として下野の国小中村、今の栃木県佐野市の農村に生まれた。自身の回想によれば、記憶力が悪く、剛情な子供であっつたという。正造自伝で「予は下野の百姓なり」と書き出している。          1857年(安政4年)17歳

 父富蔵の割元昇進に伴い、その後任として、小中村六角家知行所の名主となった。

 1863年(文久3年) 23歳

正造は、大沢清三郎の次女カツと結婚する。  その頃領主六角家の騒動により、農民の側に立って、名主を免ぜられてしまう。

‹br› 1868年(慶応4年)28歳

 幕末、村の暮らしを守ろうと、六角家騒動   で捕われ、10か月と20日間、牢に入れられた。正造の弱い者の立場に立って考えるという母からの教えは、正造の一生を通じて貫いかれた姿勢につながっています。

  1869年(明治2年)29歳

 領内追放処分で明治維新後に釈放され、このあと、堀米町の地蔵堂で手習い塾を開く。この手習い塾を恩師の赤尾小次郎の嫡孫に譲って勉学のため、東京の織田龍三郎の門をたたく。ここで、江刺県大属早川信斎に巡り会い、早川・織田らの勧誘で江刺県への旅立ちとなる。(右写真は正造の妻かつ)

2.江刺県時代(30歳〜34歳)

 

 

 1870年(明治3年)30歳

 下級役人(県附属補)として現在の秋田県鹿角市に赴く。正造の江刺県での生活は「御用雑記公私日誌」(右の写真参照)に記載されている。 江刺県には、岩手県遠野町(現在の遠野市)に本庁、鹿角郡花輪町(現秋田県鹿角市花輪)に分局があり正造は本庁到着後、分局勤務となりここでの活動は、東北地方の冷害による救助窮民の実態調査にあたり、農民たちの貧しい生活を目の当たりにする。農民の姿に涙を流し、「此民のあわれを見れば、東路の我古郷のおもい出にける」と両親に伝えている。直ぐに救済策を花輪支庁長に進言し救助米を取り寄せたりした。この時の支庁長が木村新八郎である。この時期、東北地方にあっては凶作のため、餓死者が多数出たが、正造の任地では、その対策が有効に働き餓死者が出なかった。これにより正造と木村支庁長は、深い信頼で結ばれ友人となった。しかし、正造は江刺において、一大事件に巻き込まれる。

 1871年(明治4年)31歳

 上司「木村新八郎」の殺害事件に巻き込まれ、その殺人犯として2年9カ月もの間投獄されている。2月3日、正造がリウマチス治療の湯治の直後のことであった。花輪支局の小使から知らせを受け、直ちにかけつけ、瀕死の木村に応急措置を施し医者を呼びにやらせるとともに犯人逮捕のための手配を指図した。木村は医者が到着する前に息を途絶え、犯人の痕跡は全くつかめなかった。正造は事件の顛末を江刺県に報告し、一旦は元の仕事に戻った。ところが事件から3か月後、意外にも正造自身が犯人容疑で投獄されてしまう。日頃から二人が仕事に熱心なあまり口論を交わしていたことや、事件後正造の着衣に血痕が付いていたことが理由とされた。長期にわたり犯人逮捕が出来ない当局が体面を保つため、栃木出身者でよそ者の正造を「いけにえ」にしたのではないかとの疑惑も拭い切れない。証拠としては正造の脇差に曇りがあるという程度でした。しかも正造にとって不利となったこととは、彼が当時リューマチを病んでおり、身の周りの世話や言葉の通じない不便のため、すでに結婚している身でありながら、地元の15歳の少女を雇い同棲していたことでした。しかもこの少女は木村新八郎殺害当夜、正造と同室していたのに、熟睡していて何も知らないと役人の審問に答えたため、正造の潔白を立証するには不利な証言となったのです。正造は花輪支局で、巡回出張中の弾正台(明治新政府の監察機関)の役人の取調べを受ける。これは、正義を貫き不正を見過ごす事が出来ない性格を疎ましく思った役人たちが仕組んだ冤罪事件であり、当時は未だ一方的な裁判しか行われない状況であった。 明治になっても拷問を伴った審問は江戸時代同様であり正造も鞭で何度も打たれた。その後、正造は縄で縛られ足かせをはめられ、囚人用の駕籠で野山を越えて江刺県本庁に送られた。江刺本庁でも無罪を主張する正造に「そろばん責」などの拷問が続いた。さらに厳しい東北の冬の寒さが正造を襲った。同室の囚人4人が凍死すると正造は死んだ囚人の着衣を貰いうけ凍死から免れた。 年が開け、廃藩置県により1972年(明治5年)3月に江刺県が廃止され岩手県が新設された。正造は江刺県獄から盛岡の岩手県獄へ移され、2年9か月(3年と20日正造誌)の獄中生活を送ることになる。

  1973年(明治6年)33歳

監獄則が制定され獄中の生活が改善された。それまで床板であったものが畳を敷かれ、食物や書物の差し入れもできるようになった。正造は生命の危機が無くなったこの時期、自己鍛錬に努めた。西洋の翻訳本を手に入れ、新しい政治や経済の知識をむさぼり吸収した。スマイルズ著中村敬宇訳「西国立志編」の朗読反復練習は、まさに「1年有半」、正造のどもり矯正、そして後年の弁論演説ばかりでなく、政治・経済への深い理解、そして思想形成にも大きく影響を与えた。さらに、「英国議事院談」の読書も正造後半の自由民権思想の刺激となり政治志向への大きな源流となったと思われる。

  1874年(明治7年)34歳

 県令から木村新八郎遺子らの証言により、正造の嫌疑ははれ、無罪放免を示達されました。彼は岩手県中属西山高久宅に引き取られて療養、同年5月9日叔父に付き添われて正造は盛岡から小中村に帰着しました花輪分局の地にも正造の伝承、資料が生々しく残されている。

 

3.政治を志した村会議員、県会議員の頃(35歳〜49歳)

   

1871年(明治4年)7月の廃藩置県ののち、同年11月栃木県が設置され 1873年(明治6年)小中村などは栃木県第九大区三小区という行政区域に再編されていました。

  1874年(明治7年)34歳

 故郷栃木に戻った正造は、まず残っていた六角家騒動の運動費にかかわる借金を引き続き返済することでした。彼は一時家を出て隣村、赤見村の造酒業「蛭子(えびす)屋」の番頭となりました。蛭子屋の番頭をやめた正造は村に夜学を開いて青年の指導にあたるとともに、1873年(明治6年)7月布告された地租改正条例により、全国に逐次実施されつつあった地租改正に関わるようになります。 栃木県の地租改正は1875年(明治8年)11月から着手、翌年から翌々年にかけて改正が実行され、田畑等級や地価決定など農民の地租負担額に関わる点で、政府・県対農民の利害は鋭く対立することが多かった。また、民撰議院設立建白書を左院に提出した板垣退助訪問を企てたり、政府に国会開設建白を図ったりしています。

  1876年(明治9年)36歳

 正造は自分の田畑の等級を上げ、村民不満の等級を下げて村の紛争を鎮めたと云っています。

 1877年(明治10年)37歳

、西南戦争が起こった際には、政府が戦費調達のため紙幣を乱発したことで物価が騰貴することを見越し、家財を売却し土地を購入した。これで、六角家事件で財産をなくした他の同志らにも勧めたが、経済上の空論だとだれも応じなかった。やがて、正造の見込みどおり地価が高騰し、3,000円の利益を得ることができた。これで当分の間、生活に困らないだけの財産が手に入った。そして、自分の得た経済知識が空論でないことに自信をもった。それを資金に政治活動専念を決意しました。

 1878年(明治11年)38歳

栃木県第九大区三小区区会議員に選ばれ、政治に一身をささげることを決意する。7月三新法(郡区町村編制法・府県会規則・地方税規則)制定、これによって大区小区制は廃止され、郡・町村が復活、民衆の地方行政参加を認める府県会の開設や戸長(江戸時代の村役人としての性格と政府の代官としての性格をあわせもつ)公選が実施されることになりました。県会議員の被選挙権は地租10円以上を収める満25歳以上の男子で、選挙権は地租5円以上を収める満20歳以上の男子に限られており、栃木県安蘇郡における被選挙権資格者は全人口の2〜3%にすぎませんでした。

 1879年(明治12年)39歳

 栃木県会議員選挙に次点で落選したが、同年8月「栃木新聞」(「下野新聞」の前身)を再刊、正造は同新聞編集長になり、同年9月「国会を設立するは目下の急務」を同新聞に掲載しました。

 1880年(明治13年)40歳

 補欠選挙によりはじめて栃木県会議員に当選し、政治に発心した正造は、栃木における自由民権運動の中心人物として活躍し始めた。以後4回連続当選する。民権派県会議員としての正造の主張は、地方自治の拡充と政府の干渉排除、行政費削減による人民の負担の軽減などであった。

 1882年(明治15年)42歳

 立憲改進党に入党。

  1883年(明治16年)43歳

栃木県令(知事)に就任した三島通庸(左の写真)の県政は、正造の主張と真っ向から対立(*4)するものであった。三島はそれまでの福島県令と兼任だったが、福島では前年の「福島事件」に際し、自由民権派の大弾圧を行っていた。栃木の自由民権運動も退潮していった。また、三島は県庁移転や陸羽街道の新開・改修工事など土木政策をとり、巨額の予算を計上してきた。さらに、寄付金を強制したり、各戸に数十日の無賃労役を科したり、土地の強制収容や家屋破壊が行われた。反発する住民には、警察力をもって弾圧していった。

  1884年(明治17年)44歳

 臨時県会では、三島県令が提出した補正予算を満場一致で否決した。さらに議会は、三島専断の告発文書を中央政府(参事院)へ訴えることを決めた。 身の危険を感じた正造は、宇都宮を脱出し、安全になるまで東京で身を潜めたほうがよいという友人の忠告があったが、正造はすぐに栃木にもどり、隠れながら三島暴政の証拠集めを行った。 このような時、茨城県で自由党過激派による加波山事件が起こった。三島県令はこれに乗じて、正造を逮捕しようとした。正造はそれまで集めた証拠資料をもって上京したが、正造に関係する人が次々に逮捕され、正造も警視庁で身柄を拘束された。現職の県会議員が、このような辱めを受け、犯罪者たちとともに拘置所に眠ることを、自伝の中で嘆いている。 さらに、正造は宇都宮監獄へ移された。三度目の獄中生活である。加波山事件の容疑での逮捕だが、えん罪であることは間違いなかった。裁判になれば、それを晴らすだけでなく、三島暴政を公式に訴えることができると期待した。しかし、いくら要求しても公判は開かれなかった。一年間にわたる三島県令の抵抗は、正造の投獄によって最終局面を迎えたが、三島の転任をもって終わりをつげた。栃木を三島暴政から守るという点では、正造らの勝利といえる。六角家事件同様、新時代においても、人民のために権力側の不正と命がけで闘うという姿勢は貫かれていた。その信念が、たとえ投獄されても相手に屈することなく、過酷な生活に耐え抜けた原動力になっていたといえる。 

 1886年(明治19年)46歳

 栃木県政の中心となり県会議長となった。

 1889年(明治22年)49歳

大日本帝国憲法発布の祝賀式典には、栃木県会議長の資格で参列した。当初は「参観」であったが、自分たちは選挙で選ばれた人民の代表であると山県内務大臣に抗議し、「参列」に変えさせたという。このようなところにも、「人民の代表」という正造の自負が見られる。

 第1回終

田中正造翁没100年に思う(第2回)

今甦れ「物事を民の立場から考える」正造の精神

 

  田中正造(1841〜1913)田中霊祠に残る正造画

 第1章 正造の生涯

4.足尾鉱毒と衆議院議員時代(50歳〜60歳)

  正造は明治憲法の中で、人々の生命、権利、財産の保証が明記されていることに希望を見出していた。自由民権運動の最大の目標であった国会開設が、実現することとなった。

 1890年(明治23年)50歳

  第一回総選挙では、栃木三区(足利、安蘇、梁田)から立候補し、当選した。(右の写真は衆院当選時の選挙はがき)衆議院議員として、国政の場での活躍が始まった。国会議員になるとほぼ同時に、足尾鉱毒問題が顕著になってきた。総選挙が行われたのが、明治23年7月。その翌月8月23日、渡良瀬川は50年ぶりといわれる大洪水に見舞われた。それまで、洪水があると上流の腐葉土がもたらされ、農作物はかえって繁茂してきた。ところが、今回の洪水では様子が違っていた。稲は黒く変色し、穂が出ずに枯れていった。桑木も8,9割が枯れてしまった。それまでも、渡良瀬川の魚が激減していることから異変に気づきはじめていた沿岸住民は、今回の洪水で上流の足尾銅山に原因があると確信するようになった

 1891年(明治24年)51歳

  鉱毒の被害に苦しむ農民の窮状を訴えて、第二回帝国議会にて足尾銅山の鉱業中止を要求の演説を行った。正造が衆議院議員となって4年後、日進戦争が始まる。銅は大砲や弾丸の原料としてその重要性はますます高まる。同年父富蔵没する

*足尾鉱毒事件とは

栃木県日光市足尾地区では江戸時代から銅が採掘されていたが、江戸時代前期をピークとして産出量はいったん低下し、幕末にはほとんど廃山の状態となって国有化された。明治維新後、民間に払い下げられ、1877年に古河市兵衛の経営となる。古河は採鉱事業の近代化を進め、1885年までに大鉱脈が発見された。さらに西欧の近代鉱山技術を導入した結果、足尾銅山は日本最大の鉱山となり、年間生産量数千トンをかぞえる東アジア一の銅の産地となる。当時銅は日本の主要輸出品のひとつであり、全国の産出量の1/4は足尾銅山が占めていた。>しかし精錬時の燃料による排煙や、精製時に発生する鉱毒ガス(主成分は二酸化硫黄)、排水に含まれる鉱毒(主成分は銅イオンなどの金属イオン)は、付近の環境に多大な被害をもたらすこととなる。  鉱毒ガスやそれによる酸性雨により足尾町(当時)近辺の山は禿山となった。木を失い土壌を喪失した土地は次々と崩れていった。この崩壊は21世紀となった現在も続いている。崩れた土砂は渡良瀬川を流れ、下流で堆積した。このため、渡良瀬川は足利市付近で天井川となり、足尾の山林の荒廃とともにカスリーン台風襲来時は洪水の主原因となった。 鉱毒による被害はまず、1878年と1885年に、渡良瀬川の鮎の大量死という形で現れた。ただし、当時は原因が分かっておらず、これを8月12日に最初に報じた朝野新聞も、足尾銅山が原因かもしれないというような、あいまいな書き方をしている。1885年10月31日、下野新聞が前年ごろから足尾の木が枯れ始めていることを報じ、これら2つが足尾銅山と公害を結びつける最初期の報道と考えられる。次に、渡良瀬川から取水する田園や、洪水後、足尾から流れた土砂が堆積した田園で、稲が立ち枯れるという被害が続出した。(写真は現佐野市界地区の被害状況)これに怒った農民らが数度にわたり蜂起した。田中正造はこのときの農民運動の中心人物として有名である。なお、この鉱毒被害の範囲は渡良瀬川流域だけにとどまらず、江戸川を経由し行徳方面、利根川を経由し霞ヶ浦方面まで拡大した。田畑への被害は、特に1890年8月と1896年7月21日、8月17日、9月8日の3度の大洪水で顕著となった。1892年の古在由直らによる調査結果によれば、鉱毒の主成分は銅の化合物、亜酸化鉄、硫酸。1901年には、足尾町に隣接する松木村が煙害のために廃村となった。このほか、松木村に隣接する久蔵村、仁田元村もこれに前後して同様に廃村となった。1897年から1927年にかけて行われると、表だった鉱毒被害は減少した。しかし、渡良瀬川に流れる鉱毒がなくなったわけではなかった。他の地域と異なり、渡良瀬川から直接農業用水を取水していた群馬県山田郡毛里田村(現太田市毛里田)とその周辺では、大正期以降、逆に鉱毒被害が増加したと言われる。1971年には毛里田で収穫された米からカドミウムが検出され出荷が停止された。古河鉱業はカドミウム被害は認めていないが、群馬県がこれを断定した。

5、 川俣事件(60歳)

 

 1896年(明治29年)56歳

  10月、足尾銅山による鉱毒被害が増大すると、衆議院議員田中正造の主導の下、群馬県邑楽郡渡瀬村(現館林市)にある雲龍寺に、栃木・群馬両県鉱毒事務所がおかれた。(雲龍寺境内の足尾鉱毒事件被害の状況を記した碑)

 1897年(明治30年)57歳

  第1回の請願が行われた。農民らは結束して東京に請願に出かけることにし、農民らは東京大挙押出しと呼んだ。参加者は2000人。農民らは、米を持参して徒歩で数日がかりで東京に向かった。第1回押出しは、榎本武揚農商務大臣との面会に成功し、榎本はこの直後、現地視察を行った。榎本の視察があまりにおざなりだと感じた農民らは、同年3月24日再度押出しを行った。

 1898年(明治31年)58歳

  第3回の押出しが、9月26日に行われた。約10、000人が、同様に雲龍寺を起点に東京に向かった。東京府南足立郡渕江村(現東京都足立区)の保木間氷川神社まで、約2,500名がたどりついた。ここで、憲兵隊や警察による説得を受けた。田中正造も説得に当たつた。

 1900年(明治33年)60歳

  第4回押出しは2月13日午前1時、700から800人の農民が雲龍寺に集結していた。警官は解散を命じたが、農民らは応じなかった。途中の群馬県邑楽郡佐貫村大字川俣村(現在の明和町川俣)で警官隊と衝突。流血の惨事となり、これを川俣事件と呼ぶ。(写真は血染めのシャツ)農民らによれば、土足で本堂に上がりこむなど、警官側が乱暴をはたらいたとしている。警察が首謀者、リーダーと目していた人物らを、14、15日に相次いで逮捕され、逮捕者の数は67名となった。予審取調べは直後から行われ、7月9日、51名を有罪(起訴相当)、16名が不起訴となった。この事件の2日後と4日後、田中は国会で事件に関する質問を行った。これが「亡国に至るを知らざれば之れ即ち亡国の儀につき質問書」で、日本の憲政史上に残る大演説であった。2日後の演説の途中で当時所属していた憲政本党 を離党した。当時の総理大臣 ・山縣有朋 は「質問の意味がわからない」として答弁を拒否した。。この年の川俣事件公判の傍聴中、あくびをしたところ、態度が悪いとして官吏侮辱罪に問われ、裁判 にかけられた。なお、川俣事件は仙台控訴審 での差し戻し審で、起訴状 に担当検事 の署名がないという理由で1902年(明治35年)に公訴不受理(一審で無罪だった者については控訴棄却)という判決が下り、全員が釈放された事件発生百年後の2000年2月13日、群馬県邑楽郡明和町の事件発生現場に、川俣事件記念碑が建てられた。

  6、 天皇直訴(61歳)

 

 1901 年(明治34年)10 月61歳

  議会を捨てました、帝国議会で10 年間衆議院議員を務め、足尾鉱毒に苦しむ住民の救済を訴え続けてきたが、それでも、時の政府が日清、日露の戦争に力を注ぎ、住民を守ろうとしないため、「亡国に至るを知らざればこれ即ち亡国の儀につき質問書」を提出し、説明演説を行う。正造の眼には、鉱毒の被害に対する政府の無策、無責任を鋭く追及するものであって、日清戦争を経て大国への道を歩む日本の姿は,既に亡んだと写ったのであろう。これに対し政府の答えは「質問の趣旨その要領を得ず、よって答弁せず」というものであった。正造は衆議院議員を辞職した。(写真は直訴状と幸徳秋水) 12月9日、急進派の幸徳秋水の元に田中正造が訪れていた。田中正造は、鉱毒被害農民に対して約束したひとつの事を実行するために、国会議員を辞して密かに行動していたのであった。 『私の要求が政府に通じぬ時は、みずから先頭に立って死を決する覚悟である』 田中正造は確かに約束した。そして、度重なる追求にも何等回答しようとしない政府を見て、田中正造は、この農民達との約束を実行する決心をしたのであった。 天皇直訴。田中正造の考えた結論はそこにあった。憲法は天皇陛下が臣民の幸福の為に作られた物。その憲法を正しく行わない者がいるために、陛下の臣民が苦しんでいる。それをぜひ陛下にお伝えしなければならぬ。そう田中正造は考えた。 前日、妻カツに離縁状を書き送った田中正造は、この日、名文家で知られた幸徳秋水に、その直訴状の草案を依頼しに来たのだ。幸徳秋水は田中正造の決心を知ると二つ返事でこれを了承し、田中正造の望む通りの古式にのっとった文体で徹夜で直訴状を書き上げた。鉱毒地の復旧を天皇に求める主題を見事な文体で綴ったもので、正造もわずかな加筆をしただけで満足してこれを受け取った。 12月10日 、東京市日比谷において、帝国議会開院式から帰る途中の明治天皇に足尾鉱毒事件について直訴 を行う。途中で警備の警官に取り押さえられて直訴そのものには失敗したが、東京市中は大騒ぎになり、号外も配られ、直訴状の内容は広く知れ渡った。田中は即拘束されたが、政府は単に狂人が馬車の前によろめいただけだとして不問にすることとし(田中本人の言及による)、即日釈放された。田中は死を覚悟しており、釈放後、妻カツ宛に自分は(12月)10日に死ぬはずだったという意味の遺書を書いている。直訴は死罪ですが、正造は自らの命と引き換えに世論の喚起を狙った。また直訴直前に迷惑がかからないようにとカツに離縁状を送っているが、カツ本人は離縁されてはいないと主張している。

7、 谷中村(62歳〜72歳)

 

1902年(明治35年)正造62歳、

  渡良瀬川下流に貯水池 をつくる計画が浮上。建設予定地となっていた埼玉県 川辺村・利島村の反対運動に参加。計画は白紙になった。

 1903年(明治36年)63歳

  栃木県下都賀郡谷中村 が貯水池になる案が浮上。

1904年(明治37年)64歳

栃木県議会で谷中村買収案通過、万策尽くした正造は、7月29日、谷中村住民となって村復活の為に闘いはじめました。 1906年(明治39年)には、谷中村議会は藤岡町 への合併案を否決するが、栃木県会は秘密会で谷中村買収を決議。貯水池にするための工事がはじめられた。谷中村は藤岡町に併合され、これで行政上「谷中村」は消滅してしまいました。当時谷中村には450 戸、2700人の住民が住んでおり、彼らは鉱毒の被害者であって、 加害者ではありませんでした。約450戸の村民は移住を強いられ、近隣に、あるいは県の斡旋で開拓民として遠く北海道へと、生活の場を変えたのです。当時の谷中村民の移転先は古河市88戸、野木町66戸、藤岡町66戸、海老瀬25戸など近隣が主でしたが、佐呂間へは谷中村など6村から66戸210人がありました。 栃木県は「谷中村は藤岡町へ合併した」と発表。谷中村は強制廃村(*8)となるが、田中はその後も谷中村に住み続けた。

 1907年(明治40年)67歳

  政府は土地収用法の適用を発表。「村に残れば犯罪者となり逮捕される」と圧力をかけ、多くの村民が村外に出たが、田中は強制破壊当日まで谷中村に住み続けて抵抗した。6月29日から7月5日の7日間に谷中村の残留民家屋16戸を栃木県は強制破壊を行った。結局この土地が正造の終の棲家となる。

 1908年(明治41年)68歳

  政府は谷中村全域を河川地域に指定。

 1911年(明治44年)71歳

  旧谷中村村民の北海道 常呂郡 サロマベツ原野への移住が開始された。

8、 正造の死(73歳)

 

 1913年(大正2年)73歳

   田中正造死去。谷中村の強制破壊のあと、正造は残留農民とともに、仮小屋を建てて、抵抗を続けていました。また、政府の政策の誤りを指摘して、谷中村の復活を図るため、関東各地の河川調査の実態をまとめておりました。土地の強制買収を不服とする裁判などがあり、この後も精力的に演説などを行ったが、自分の生命が先行き長くないことを知ると、1913年(大正2年)7月、古参の支援者らへの挨拶まわりに出かける(運動資金援助を求める旅だったともされる)。その途上の8月2日、足利郡吾妻村下羽田(現・佐野市下羽田町)の支援者・庭田清四郎宅で倒れ、約1ヵ月後の9月4日に同所で客死した。下野新聞によれば、死因は胃ガンなど。財産はすべて鉱毒反対運動などに使い果たし、死去したときは無一文だったという。死亡時の全財産は信玄袋1つで、中身は書きかけの原稿と新約聖書、鼻紙、川海苔、小石3個、日記3冊、帝国憲法とマタイ伝の合本だけであった。なお、病死前の1月22日に、小中の邸宅と田畑は地元の仮称旗川村小中農教会(現・小中農教倶楽部)に寄付していた。邸宅は現在、小中農教倶楽部が管理している。  雲龍寺で、9月6日に密葬が行われ、10月12日に佐野町(現・佐野市)惣宗寺で本葬が行われた。参列者は数万人ともいわれる。(正造の分骨地6カ所) 田中の遺骨は栃木・群馬・埼玉県の鉱毒被害地計6箇所に分骨された。このため、墓は6箇所にある。なお、このうち1箇所は1989年(平成元年)に公表されたもので、それ以前の文献では5箇所とされていた。 ひとりの政治家、個人が生涯をかけて、命を投げ捨てて、私利私欲も利害もなく、ひたすら農民と、地域を守りたいとの願いも通じることなく、正造が生きているときは銅山は閉山できなかった。正造死後の1973年 死去から60年後ついに足尾銅山は閉山し採掘終了となった。そして、2011年3月11日14時46分頃、三陸沖を震源地とするマグニチュード9.0の海溝型地震、東北地方太平洋沖地震が発生し、宮城県栗原市築館では震度7を記録した。この地震に伴う大津波によって岩手県、宮城県、福島県、茨城県、千葉県など三陸沿岸から関東地方沿岸の集落では壊滅的な被害が発生した。死者数は死者 15,854人 行方不明 3,155人で、阪神大震災の6434人を大幅に上回り、戦後最悪の災害となった。東京電力福島第一原子力発電所では、地震ののち自動停止したものの津波により冷却能力を失い、国際原子力事象評価尺度レベル「7」の深刻な原子力事故が発生した。その後の政府や関係機関の対応など国民に目が向けられていないと感じられる。2013年は正造が亡くなってから100年、単なるイベントではない。もう一度、それぞれが田中正造という人物の生き様を考える機会と取れ得なくてはならないと思う。足尾銅山の精錬による鉱毒を溜めるため、廃村にさせられた旧谷中中村跡は現在渡良瀬遊水地となり、チュウヒが舞う広大な葦原は、今年ラムサール条約に登録された。谷中村跡はその中心にひっそりと守られています。歴史を刻み、後世に残したい自然として残されていきます。正造もその姿をそっと見届けていることでしょう。 「田中正造の精神というのは、物事を民の立場から考える、それを民の力で変えてゆく。そうすればまずは一番重要なのは命をどういう風に守るか、暮らしをどのようにもっと生命を育むような暮らしになるか。それが成り立つために生業をどのようにお互いに作り合うかということを、国家という壁、又は文化、宗教等の壁を超えてお互いに協力し合うほうが相互にとって利益になるし、命の育みに貢献するのだろう。

田中正造分骨地めぐり

‥鎮羸蟻だ顕畔骨地(佐野市小中町)

∈缶醋饅け大師(惣宗寺)分骨地(佐野市金井上町)

1昔胸分骨地(群馬県館林市)

づ鎮耄釿分骨地(栃木市藤岡町)

➄北川辺田中霊場分骨地(埼玉県北川辺町)

➅寿徳寺分骨地(栃木県足利市)

    第2回終

 

田中正造翁没100年に思う(第3回)

第2章 正造亡き後100年の日本


1.正造の誤算


正造は73歳で苦闘の人生を終えるのだが、その人生のターニングポイントで正造はいくつもの誤算があったといえるのではないか。その誤算がなければまた正造は歴史に残る人物になったかどうか、2013年正造没後100年の今、正造が生きた時代をもう一度振り返り、その誤算を検証してみよう。


その 1.4回に亘る投獄生活、わが身にふりかかる不条理

公害の先駆者と言われる田中正造は73歳で人生の幕を閉じた。その歩みを振り返ると、正造の思い描いた通りにならない、誤算の連続の人生であったといえる。 その一つは、正造は親から教えられた生きてるうちに世の中のためになれという精神を貫くことは、生涯で28歳、31歳、44歳、62歳と人生の節目に、4回の入獄生活を送ることとなる。投獄期間は延べ4年ではあるが、過酷な投獄生活を送ることに自分にふりかかる出来事に、自分への差別やねたみ、罠や、冤罪、権力者のエゴ、同志の裏切りなど正造のその後の人生における正義の戦いへのプロローグであった。正造はこれらの事象に屈することはなかった。獄中における過酷な体罰より、正造のこうした不条理な運命に失望したことだろう。孤独な心を慰めたのは、差し入れされた本を読破し、次へのステップへ繋げたが、正造はこの運命は自分で臨んだことではなく、誤算であったと言える。


その2 足尾銅山の閉山への願い


足尾銅山鉱毒問題が初めて帝国議会で取り上げられたのは、1891年12月、田中正造衆議院議員の質問演説だ。正造が議員を辞職する1899年までの9年間で、鉱毒問題に関して150回を超える質問演説や質問書提出を行った。
 明治政府は鉱毒調査委員会を設置(1897年)し、鉱毒予防工事命令を出す。それにより鉱毒全面垂れ流しは多少緩和されるが、古河の操業は続き、被害も続く。政財界と古河鉱業との緊密な結びつきにより、鉱業停止請願は受け入れられず大雨・洪水の度に被害は大きくなっていく。正造が操業停止を訴え続けた古河鉱業の足尾銅山(写真は明治18年に建設された足尾銅山精錬所)は明治黎明期のキーマン達の行動が投影されており、近代日本の創成期の富国強兵の時代背景ばかりでなく、正造の正義が通じない一つの誤算があったと言える。古河鉱業の創業者である古河市兵衛は渋沢栄一、陸奥宗光と交友関係は興味深いものがある。古河市兵衛(左の写真)の父は岡崎の庄屋木村家ですが没落し、幼少から困窮生活で丁稚奉公の後、叔父の仕事を手伝い、貸金業の叔父知人の京都”小野組”の使用人古河太郎左衛門の養子となり、養父病没で小野組で働く事になります。…頭角を現した市兵衛は鉱山経営も手掛けて小野組の大番頭に上り詰めるのです。この京都の小野組とは三井組、岩崎家(三菱)とも競う当時の大商人、政商で維新の時、賊軍征伐の官軍へ用金調達の功から明治政府の資金預託、為替方も命ぜられ租税収納や送付を扱っていた。一方の陸奥宗光は紀伊藩士で幕末には坂本竜馬と親しく、勝海舟の海援隊に加わり、才知にすぐれ、”二本差さないでも食えるのは陸奥と俺ぐらい”と竜馬に言わせるほどの切れる男だった。彼の54歳の生涯ではヨーロッパ留学、駐米国公使、農商務大臣、外務大臣では日清戦争に係わり外交成果を挙げた。二人の最初の接点は、明治4年頃大蔵省に租税正として招聘された渋沢栄一に市兵衛が相談事を持ち込み懇意になりますが、渋沢栄一の上司、租税頭(局長)が陸奥宗光と云う事でこの才知溢れる三人が偶然親交を結ぶ事に為ったといわれる。……やがて渋沢栄一は大蔵省を退任して国立第一銀行の設立を計り、小野組、三井組、島田組の出資をもとめ大株主として銀行は発足します。小野組もまた業務の拡大に国立第一銀行から相当額の融資を利用しますが、政商同士の争いに敗れたのか、経営不振か、突然政府預託金の全額返済を国から迫られ、結果倒産に追い込まれる。小野組倒産は国立第一銀行を直撃、貸出金総額300万円のうち小野組の事業資金として140万円の融資残高があり、銀行は連鎖倒産の危機を迎える。……銀行頭取渋沢栄一のピンチを救ったのは古河市兵衛の誠意でした。彼は小野組の全資産と自身の資産総てを担保として銀行に差し出し、結果銀行損失は2万円に留まりました。市兵衛は丸裸同然で小野組を去ります。…”禍福はあざなえる縄の如し”と喩がありますが、渋沢栄一の市兵衛に対する感謝は、やがて強い信頼、親密の関係となり古河市兵衛の成功へのステップに転換されるのです。明治15年(1882)に日本銀行が誕生して日銀券発行にともない国立銀行条例は消滅、各行は普通銀行になり現在はナンバー銀行として、第三、第四、第十六、第十八、第七十七、第八十二、第百五、第百十四、などが営業しております。…無一文の市兵衛に渋沢栄一は早速手を差し伸べ市兵衛の手掛ける新潟草倉銅山買収に融資の道を開き明治八年に成功させ、古河市兵衛が鉱山業として自主独立の第一歩を歩むことになります。更には明治10年(1877)に廃鉱状態の元幕府直轄足尾銅山を国立第一銀行の更なる支援を得て買収し、努力の結果銅の巨大鉱脈を次々に発見して、巨利を手中に収め古河財閥として発展の礎を築く事が出来ました。また、駐米国公使の陸奥宗光から銅金属の近代工業での将来予測や電気精錬など先進鉱山経営の情報を逐一提供を受けて経営に活用していたのです。この間子供の無かった市兵衛は陸奥宗光の次男潤吉を養子に迎える縁戚関係となり、後に潤吉は養嗣子として古河二代目を継ぎます。その住まいは今も北区の一角に旧古河庭園として一般に公開されています。武蔵野台地の斜面と低地という地形を活かし、北側の小高い丘には洋館を建て、斜面には洋風庭園、そして低地には日本庭園を配したのが特徴です。この庭園はもと明治の元勲・陸奥宗光の別邸でしたが、次男が古河財閥の養子になった時、古河家の所有となったものです。


その3 政治へのむなしさ、失望

正造は獄中のなかで明治という新しい世の中の変化を知るとともに、「西国立志編」や「英国議事院談」を獄中で読破しその後人生の源流になる自由民権思想に強い刺激を受け神聖な政治へ期待は大きくなっていた。正造は疑いが晴れて、小中村に帰り、商売と勉学に励み、1878年38歳の時区会議員に選ばれ、政治に一身を捧げることを誓い、政治家への道に進む。1880年(明治13年)栃木県会議員に当選、以後4回連続当選する。有志とともに国会開設運動に尽くす。1882年(明治15年)前年政変により政府を追放された大隈重信(写真右)が新党を結成した立憲改進党に入党する。立憲改進党は「王室の尊栄」「人民の幸福」を2大方針として政治斬新主義を唱え、イギリス流立憲君主制、2院政議会など穏健な立憲政治を目標に掲げており、正造が目指す政治であった。改進党には慶應義塾出身者や板垣退助らの自由党結成時に分裂した嚶鳴社系、早稲田大学の創設メンバーなど複雑な人脈であったたため、1896年(明治29年)解党して進歩党を結成し、正造も進歩党へ移った。1890年(明治23年)正造50歳第1回衆議院選挙に当選、以後議員辞職して天皇直訴まで6回当選。この間全国各地を改進党議員として演説を行う。正造が国会で初めて足尾鉱毒の質問を取り上げたのは、第2回帝国議会(左の写真は帝国議会)であり、第1次松方正義内閣で与党議員として質問に立ったが政府は被害の原因は鉱毒と断定せず、調査中と発表する。一方、県知事や県議会の斡旋により、古河市兵衛と被害民との示談が進められて正造はその不当性について国会で更に追及している。1896年(明治29年)までに栃木、群馬の鉱毒被害関係43カ町村で示談契約が結ばれた。正造は改進党遊説の会場においてたびたび暴漢によって襲撃を受け軽傷を負っている。また1892年(明治25年)には自由党と改進党は自由民権を唱え藩閥政府と対立し、その力を恐れて政府は第2回総選挙で大選挙干渉を行い、正造の支持者では暴漢に襲われ、放火されるなどの妨害を受けるが当選を果たしている。この時の松方内閣への怒りを読んだ書(「家をこほち人を傷け火を放ち民のけふりはいかに立つらん」松方内閣への憤りを詠んだもの。)が残されている。1892年伊藤博文内閣と変わっても政府の対応は何ら誠意は見られない状況が続いた。しかしその後の大雨、大洪水により被害は更に拡大し、深刻化していった。正造が衆議院議員として、連続7期、国会での質問は11年間、質問回数は320件その半数以上が鉱毒問題を追及している。この間内閣総理大臣は9人変わり政党も離合集散を繰り返し、正造も所属政党を立憲改進党、進歩党,憲政本党となるが、ほかの多くの政党が結成解党を繰り返された。政党間の争いは政治家のスキャンダルを追及、政治家の汚職などが政争となっている。どこか今の政治とまったく同じです。100年経って見たことのある風景だと、正造が生きていればきっと言うだろう。正造が政治を志したのは新政府、新憲法、民主政治は国民の幸せを実現してくれると信じたからだと思う。なぜか、政治のむなしさを感じ失望と誤算を痛切に知ったと思われる。
第3回終

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